雪が降っていた、
彼が笑っていた、
戦場には、雪が積もっていた。
見渡す限りの白い世界、その一角を切り取ったように染めているその赤の中に彼は立っている。
軽いはずの片手剣を両手で持ち、その切っ先を地面につけ、はぁはぁと肩で息をしている。司馬懿だった。
周りには、赤黒いものが転がっている。ほんの少し前まで暖かい体温を持ち、自分と同じように動いていたモノの成れの果て、肉塊。散らばった手足と指、恨めしげに視線を投げてくる生首。それらから目を逸らすように司馬懿は目を閉じた。小さく首を振り、気を落ち着かせるように長く息を吐く。
その時、司馬懿の閉じた視界を黒い影が覆った。
「司馬懿殿」
聞きなれた声に司馬懿は瞳を開け振り返る。立っていたのは張コウだった。
「ああ…儁艾か…」
彼を字で呼び、司馬懿は首を振った。
張コウの両手には彼の武器である爪がつけられている。それは、両方とも鋭い切っ先から腕を覆う篭手の部分まで赤黒い液体に濡れ、鈍く光っていた。彼の鎧や顔にもそれは飛び散っている。彼は、優しく笑っていた。
「司馬懿殿、これ、お一人で倒されたのですか?」
「…ああ」
「お強いのですね」
張コウは感嘆の声を上げながら、飛び散った肉片を眺めている。司馬懿は気分が悪くなっていた。
あれらを平気でみている彼の方が「強い」のではないだろうか。そう、司馬懿は思った。
「戦場には、慣れましたか?」
「…慣れられるはずがないだろう」
司馬懿の返答に、何がおかしいのか張コウはくすくすと笑う。どう見ても男の仕草には見えないが、彼らしいと司馬懿は思った。しかし、同時に不快になった。彼のその笑い方が、自分を見下しているように見えるからだ。
「何故笑う」
「え?…ああ、すみません」
また元のような柔らかい笑みを唇に浮かべ、張コウは司馬懿から目を逸らした。
「あなたらしいな、と思って」
司馬懿は張コウの視線の先を見ようとした。しかしそこには変わらず赤黒い肉片が飛び散っているだけで、張コウの気を止めそうなものは何もなかった。
彼が神聖そうに見ている先に何があるのか、司馬懿にはまるで見えない。
ふいに張コウが、司馬懿の手から剣を奪った。それを持つのに邪魔になる爪は、両方とも雪の上に並べて置いた。
「ああ、意外と重いのですね」
そう言いながらも軽々と、片手でくるくる回してみせる。その仕草が背景となっている雪景色と合わせて、司馬懿には何か作り物めいて見えた。白い陶器の雪の舞台の上で回る、オルゴールの人形のように。
その動作は、やがて舞の形に変わる。
剣を構え、振り、その場で体を回転させる。高い位置で結わえた長い髪が揺れ、白いうなじが覗く。
けして動きのある舞ではなかったが、司馬懿は目を奪われた。
その姿は確かに美しくはあったけれど、触れたら壊れてしまいそうな脆さがある、と司馬懿は感じた。
その顔に浮かべた柔らかい微笑はいつもと同じものであったけれど、今のその顔は、そう。
(今にも、泣き出しそうな)
悲しげな、幸せそうな笑顔だった。
「…お返しします」
気付くと、張コウが剣を司馬懿に差し出していた。
「あ…ああ」
それを片手で受け取り、腰の鞘に戻す。今も人間の手がそれを握っていたと言うのに、その柄は冷えていた。
司馬懿は、置いておいた爪をもう一度装着しなおしている張コウの顔を見上げ、口を開く。
「怪我は、大丈夫なのか?」
「…気付いてらしたのですか」
でも、大した事ないですから、と笑いながら、胸に着けた軽鎧を少し持ち上げて見せる。司馬懿はそれを何気なく見、そして顔を背けた。
鎧に隠されていた部分には白い布が巻かれ、それは赤く濡れていた。もちろん、彼の血液によってである。
布の量が足りなかったのだろう、白い布の上下からは、刀剣類で斬られたような傷跡が覗いている。
「早く、戻るぞ」
命にもかかわると、司馬懿は思った。張コウの手を引き、陣の方へ向かおうとした。
しかし張コウはそこに留まったまま、首を振る。
「私、まだ向こうでやらなきゃいけない事があるんですよ」
「他の奴に任せればいい」
「痛くなんてありませんから」
「痛くないなんて、そんなはずは」
お前を死なせたくないんだ、と言い、自分の手を離そうとはしない司馬懿に、張コウは微笑した。
「ああ…やはり司馬懿殿は優しいですね」
ふいに、司馬懿の唇を掠めた冷たいもの。それが張コウの唇だと気付くのに、ほんの少し時間がかかった。
そして気付いた時には、張コウは司馬懿の腕から抜け出していた。
「儁艾」
「大丈夫ですよ。私は死にませんから」
その後に司馬懿には聞こえないほどの声で何か呟き、それから笑って、張コウは司馬懿に背を向け駆けていった。
司馬懿はその後を追おうとしたが、張コウのほうがずっと足が速いという現実を思い出し、止めた。
かわりに上げていた手を自分の唇に持って行き、そっと触れる。
さっき、張コウの触れていった唇は彼の体温でも移ったように冷たかった。
男に口付けられるのは勿論初めてだが、相手の一風変わった見た目のせいか、嫌悪の感情は沸いてこない。
代わりに沸いてきたのは、彼に対する憐憫の感情。
『死にませんから』という台詞の後に、彼が呟いた言葉。『殺してほしいのに』。
司馬懿の耳にその声は届いていなかったが、口の動きで司馬懿はそれを読んだ。
死にたくて、死ねなくて、戦場で雪の白と血の赤を背景に舞う、哀れな人殺し。
彼が死にたいと言うその理由を司馬懿は知らなかったが、漠然と思いつくのは、彼のかつての殿。もういない、その男の姿。彼は愛というものを知っているのだろうか、ふいに司馬懿は思った。愛という感情を持って口付けという行為をしたことがあるのだろうか、と。
あの冷たい唇は、そんな感情を知っているようには思えなかったけれど。
願わくは、彼の望むとおり、彼が戦場で散れるように。司馬懿は祈ろうかと思って、止めた。
彼の思う通りにさせてやりたいとは思うが、『死なせたくない』というのもまた、司馬懿の本当の意思だったから。
そして司馬懿は、また彼が自分の所に生きて戻ってくるように、と、祈りを込めて曇天を見上げた。
雲もまた大地と同じ灰色に染まっていたが、唯一違うのは、赤がないことだった。


そしてその日も彼はまた、死ねずに司馬懿の元へ帰ってきた。
 
雪の中で舞っている張コウさんの夢を見たので。
司馬懿が何故か剣を持っているのは、やっぱり夢だからです。
あ、でも、1では剣だったんでしたっけ?

だがなぜうちの司馬懿はいつも当て馬なんだ。

読んでくださってありがとうございました!
 
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