「ねね」。
ああ、久しぶりにその名を聞いた。
心の奥底に大事に大事に、大事にしまって、
そのまましまっておき続けたかった名前だ。
その後で。
覚醒したとき、すでにそこに慶次はいなかった。扉は大砲によって破られ、広間のあちこちにへこみや傷がある。自身の体にも痛みや傷が残っており、確かにそこで戦闘が行われたことを表している。だが、彼自身の姿はもうどこにもない。
自分を睨みつけた慶次の表情を思い出す。憎憎しげに、だがどこか寂しそうな顔で、彼はこう言った。
 ―昔のお前に会いたかったよ。
壁に叩きつけられたままの姿勢で空を見上げる。太陽の位置から見るに、あの戦闘からまだ数刻も立っていないようだ。
それにしても。
(…空とは、こんなにも青いものだったか)
ほとんど微動だにしないように見える白い雲、抜けるように青い空。こんな風に空を見上げたのはいつぶりだろう。もしかしたらまだ彼女が生きていた頃、まだ4人が笑っていた頃の、その時以来かもしれなかった。
殴られた腹が痛い。だがこの痛みは、堪えなければいけない痛みだった。食らわなければいけない痛みだった。その痛みは、忘れてはいけなかったはずの忘れかけていたものを思い出させてくれた。
ふいに誰かの気配が近づくのを感じ、秀吉は広間の入り口に視線をやった。ず、ず、という何かを引き摺るような音を立てながらゆっくりと現れたのは、見慣れた色の髪だった。秀吉は痛む腹を押さえながらその名を呼ぶ。
「半兵衛」
「ひで、よし…」
口元を血で汚し、いつもはきちりと着こなした服も乱れ、しかし秀吉をその視界に捕らえた瞬間、半兵衛は微笑んだ。
「良かった、秀吉、無事だったんだね」
「お前こそ。無事でよかった、半兵衛」
痛めているのか、右足を引き摺りながら半兵衛が秀吉に近づいてくる。手を伸ばして秀吉に触れようとしたので、秀吉も手を伸ばしてその手に触れた。瞬間、半兵衛がぐらりと体の均衡を失う。
「半兵衛!」
そのまま倒れこんできた半兵衛を抱きかかえ、秀吉はその顔を覗き込む。閉じた瞼に一瞬最悪の予感が頭をよぎるが、しかし半兵衛はゆっくりとその瞼を開けた。
「ごめん、秀吉。ちょっと、無理しすぎたみたいだ」
「…駄目ではないか、半兵衛」
「ごめん」
秀吉はそのまま半兵衛を抱きしめる。傷にさわったのか半兵衛が顔をゆがめた。
「痛いよ秀吉」
「ああ…すまん」
力は緩め、しかし離さない。半兵衛も了解しているのか、その腕から抜け出そうとはせず、その代わりに秀吉の背に腕を回した。

「…半兵衛」
「何?」
「慶次の話を、聞いたか」
「…彼女の、こと?」
半兵衛は頭がいいから、話が早い。秀吉は頷く。
「我は忘れていたのだ。彼女が我に…言ったこと」
慶次はそれを知らない。だから慶次は秀吉を責め、殴りに来た。だが秀吉は言い訳をしない。自分のせいで彼女が死んだことは事実で、慶次がねねを好いていたこともまた事実なのだから。
だが秀吉は忘れていた。彼女のことを。未来を手に入れることを焦る余り、後ろを見ることをやめてしまっていたから。
「でも、僕は秀吉はそれでいいと思うんだよ」
秀吉を精一杯に見上げて半兵衛が抗議する。
「君は、前を向いて歩き続ければいいんだ。過去のことなんて、ちっぽけなことさ」
「我とお前にとってはな」
秀吉の言葉に、半兵衛は沈黙する。
「我とお前にとっては、あれは未来のための小さい事件だった。だが慶次にとっては、そうではなかったということだ」
「…でも、あいつは何も知らないのに」
「…そうだな」
慶次の知らない真実がいくつもあった。だがそれを秀吉は、慶次に教えようとはしない。それが彼女に対する、せめてもの罪滅ぼしだった。
「…ずるいな、慶次君は」
半兵衛がぽつりと呟いた。
「君も傷ついていることを知らずに、自分だけが被害者面でさ」
「…」
「でも、君も君さ。そんな奴に一発殴らせてやるなんて」
お人よしにも程があるね、そう言って、半兵衛は秀吉の胸に顔をうずめた。半兵衛と視線を合わせられなくなった秀吉は、苦笑するしかない。
しばらく、そのまま半兵衛が顔を上げる気配がないので、空を見ていた。青い空に白い雲がゆったりと流れていくのを見て、その雲のように、ゆったりと自分の心が落ち着いていくのを感じた。
そうだ、あの雲のようでもいいのだ。ゆっくりでも、確かに進み続ければ。秀吉は、ふとそう気付く。それを慶次と彼女が教えてくれたのだと思った。慶次の本当の意図は、多分そんなこととは関係がなかったのだとは思うが。

でもね、と小さく半兵衛が呟いた。
「そんな君だから、僕は君の傍にいるんだ」
答える代わりに、秀吉は半兵衛を抱く腕に少し力を込めた。
今度は半兵衛も痛いとは言わず、微笑んだのが気配で分かった。
 

一応秀半と慶次君でした。
一応、慶次ストーリー最終章あとみたいな感じで。

あの後、少し秀吉が変わったら素敵だなぁと言う妄想。
昔には戻れなくても、今のままの彼らで、また3人が仲良くなれればいいのになぁ。

読んでくださってありがとうございました!

 
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