明日になるまでは
張コウは、ひざを抱えて座っていた。
聞こえてくる音はほとんどなく、あったとしても張コウが気に留めるほどのものではなかった。
陣から離れた丘の上。張コウは一人そこにいた。
振り返れば、白くぼやけるたくさんの天幕の影と、ぽつぽつと配置された赤い篝火が真っ黒な中に浮かぶように見える。そう、ここはもう少ししたら戦場になるのだった。
戦というものに、そして自分の手で人間を切り裂くのにはもう慣れた。返り血を浴びる感触にも、相手の断末魔にも、罪悪感にも。自分が死ぬかもしれないと言う覚悟だっていつでも持っている。それでも唯一つ慣れないことは、この、戦が始まるまでの空気だった。
見上げれば、漆黒の闇に浮かぶ月。綺麗な円形を描くそれに、今は何だか腹が立った。
(地上のことなど、何も知らないくせに)
こんなに汚い世界のことを知らないから、月は何時だってあんなに美しいのだ、張コウは思った。こんな、同じ生き物同士で殺しあったりするような文化は、きっと他の何処を探したってないだろう。相手を食べるために殺す、肉食の獣達以外には。
張コウはふいに寒さを感じて体を震わせた。春でも、やはり夜風は寒い。その上今の張コウの姿は寝巻き一枚だった。寒いのも当たり前である。だが、もう一度あの狭く暗い天幕の中に戻りたいとは思わなかった。
ぼんやりと、考え事。このまま冷たくなってしまえば、もう戦わなくてもいいのだろうか?
…自分が仕えていたあの人は、もういないのだから。
「ほらよ」
「!?」
急に誰かの声がし、視界が遮られた。その、視界を覆ったものが厚手の布であることに、そしてその声の持ち主が誰であるのかに気付くのに数秒かかった。
「…夏侯淵殿」
「よ。眠れねぇのか?」
苦心して大きな布の中から抜け出した視界に映ったのは夏侯淵だった。両手に湯気の立つお茶を持っていたが、そのうちの一つを張コウに渡す。張コウの隣に腰を下ろし、残った方のお茶に口をつける。
「ありがとうございます」
「おう、それ飲んで早く寝ろ」
その言葉に、張コウはくすりと笑った。
「夏侯淵殿って、お母さんみたいですね」
夏侯淵は無言で張コウの頭を殴った。張コウはお茶を持っていないほうの手で殴られたところを押さえて、暴力反対などと言いながら笑っていた。夏侯淵もつられたように笑う。
張コウは、夏侯淵の持ってきてくれたお茶を飲んだ。それはまだ入れたばかりのようで熱く、夜風に冷えていた体を温めてくれた。張コウは細く長いため息をつき、それは白い湯気となって夜の闇に溶けた。
「眠れなかったのか?」
「…ええ」
さっきと同じ問いを夏侯淵が繰り返す。張コウは苦笑して頷いた。
「好きじゃないんです、こういう空気」
明日、人が死ぬ。たくさんの人が。自分の知っている人も死ぬかもしれない。知らない人はもっとたくさん死ぬだろう。それをするのは自分で、自分の好きな人たちで。
ひとたび戦場に立ってしまえば迷いなんて吹き飛ぶ。殺さなければ自分が殺されるだけなのだから。自分が生きたいから戦うのだと自分を正当化し、それ以外は考えなくて済む。例えば、相手を殺した後に残るだろう相手を好いていた人たちの思いを。殺した相手の抱いていた思いを。
だが、今はまだ戦場ではない。色々と考えてしまうのだった。
何度戦が起き、その前日を過ごしても、絶対に慣れることはないだろう、張コウは思っていた。
「ま、慣れたいとも思いませんけどね」
思いを吹き飛ばすように張コウは笑った。そして一気に残っていたお茶を飲み干す。
それを夏侯淵は苦笑しながら見ていた。
「でも、眠れないんだろ?」
「まぁ…何とかなりますよ」
ふいに訪れた沈黙。破ったのは夏侯淵だった。
「…知ってるか?」
「何を?」
「落ち着ける方法」
急な夏侯淵の言葉に、張コウは首をかしげる。
「えっと…掌に『人』って書いて飲み込むのなら…」
「ああ、それもあるな。じゃあ、こんなのは知ってるか?」
「え…きゃあっ!」
夏侯淵の手が張コウの肩に伸び、強い力で引き寄せた。その胸に張コウが倒れこむ。
「…きゃあ、かよ…」
あきれたような夏侯淵の声を上方に聞きながら、張コウは硬直していた。少し落ち着いた頃、その耳に伝わってくる、ドクドクという確かな音。
「あ…心臓の音?」
その音が何であるかに気付き、張コウは呟いた。規則正しいドクドクという音。自分の中にも確かに聞こえている、血の流れる音だ。
「他人の心臓の音を聞くと、落ち着けるんだってな。昔、惇兄に教わったんだ」
幼い頃、悪夢を見て眠れなかった自分を抱きしめ、従兄弟が言ってくれた言葉を夏侯淵は思い出す。あの時の大きな温かい腕と、確かな心音。
生きている証の音。
張コウは目を閉じた。耳に響く音と、自分の中から響く音が一つになる。…暖かい、と思った。
「どうだ?」
「…ええ」
ありがとうございます、と張コウは呟いた。
「そうかー、良かった!」
心底安心したような夏侯淵の声。今の体勢では張コウの方から彼の顔を見ることはできないが、笑っているのだろうとわかった。
「俺にも、お前の血が流れている音が聞こえるぜ。ほら、肩の所から」
本当だよな、何か暖かくて落ち着く気がするんだ。そう夏侯淵が言うのを張コウは何故か赤面しながら聞いていた。
そして、ふいに肩から離れようとした暖かい手を、反射的に掴んでしまう。
「…もう少し、このままでいてくれませんか?」
返事はなかったが、その手は張コウの肩をしっかりと抱き直してれた。張コウは苦笑する。
(私も…弱くなったものですね)
「ありがとう、ございます」
「眠れるか?」
「え?いや、ここで眠ってしまうつもりでは…」
「眠れそうなときに寝ちまった方がいいんじゃねーか?」
「…でもここで眠ってしまったら、夏侯淵殿が」
「いーって、いーって!お前軽いから後で天幕まで運んでやるし」
「でも…」
「いーから早く寝ろって!大丈夫、俺のことは気にするな!」
迷惑はかけたくないが、彼の好意を無駄にしたくない。その後も何度か問答が続いたが、折れたのは張コウだった。
「…すみません」
「おう、まかせろ!」
何がまかせろなのかはよく分からなかったが、そのまま張コウは目を閉じた。
暗い中にひびく、規則正しい音。そして暖かい腕。
目を閉じても、たくさんの人間の死ぬ明日が変わるわけではない。自分が人を殺す現実が変わるわけではない。
(明日になれば。戦闘が始まれば)
生きたいから立ちふさがる相手を殺すという、『戦』というたくさんの中の一つになる明日。
その、たくさんの中の一つになった自分は、もう何も考えることなく人を殺すことが出来る。
(…明日になるまでは)
それまでは、たくさんの中にたった一人しかいない自分は、たくさん苦しい思いをするのだけれど。明日になることが、苦しくて仕方がないのだけれど。
今は耳に響く暖かい音が心地よいから、すぐに暗く暖かい世界にたどり着けそうだった。
たくさんの中の一つになることも、その世界の中では苦痛を伴うことはない。

(ありがとう、ございます)

この苦痛を和らげてくれて。
今、傍にいてくれて。

あなたもきっと、苦しんでいるのだろうけど。

(…明日になるまでは。)
 

ほのぼのと見せかけて暗い。
何でだ…?

淵ちゃんと惇兄はお母さん属性だと思います。
ということで、おせっかいな淵ちゃんを。
なぜか私の書く張コウさんは、いつもうじうじ悩んでる気がします…
そんなに暗い人じゃないと思うんだけどなぁ…?

読んでくださってありがとうございました!

 
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