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名を呼ばれた気がして振り返る。


「どうした、張コウ」
不機嫌な声が彼を呼んだ。
「…いえ、何でもありませんよ、軍師殿」
数歩先に立つ端正な顔に張コウは笑顔を向け、それからもう一度空に目を向けた。
もう一度聞こえるのではないか…、そんな風に思って。
それがただの幻聴だったと、なぜか、認めたくなかった。
(だって今、確かにその声が)
しかし聞こえる声はなく、張コウは何事もなかったかのように司馬懿の方へ向き直る。
とっくに先に行ってしまっただろうと思っていた背中は、まだそこに立っていた。
「お気を取らせてしまって、すみません」
駆け寄って謝る。
じろりと張コウを見る司馬懿の目は、いつもどおり不機嫌そうで。
昨日も夜遅くまで書でも読んでいたのだろうか。
目の下の大きな隈は、張コウの知る限りいつもあるような気がする。
…と言っても、彼と知り合ってまだ期は浅いのだが。
「どうしたんだ」
声も不機嫌そうで、張コウは苦笑した。
どうやら、彼の性格がつかめてきたようだ。
「いえ、別に」
「別にという雰囲気ではなかっただろう」
何がどうというわけではないが、さっきからのお前は変だ、と司馬懿は続ける。
なぜかその目に責められているような気がして、張コウは目をそらした。
「名前を…ね」
そう、別に隠すような話でも、ない。
「名前を、呼ばれたような気がしたんですよ」


二人で居る時は、よく字で呼んでくれた。
お忍びだと称しては、町へ行って髪飾りや着物を買ってくれた。
私はあなたの部下なのですから、どうかこんなに気を使わないでください。
そう言ったら笑って、部下は上司の言うことを聞くものだ、と。
青空のように、彼はいつも笑っていた。
この手は、彼に会うずぅっと前から血に汚れていたというのに。
その手を、私を、美しいと言ってくれた。
傍にいろ、と言ってくれた。
その言葉と同じ声で彼が天下を狙うと言うのだから、私は彼についてゆこうと決めた。
私は彼のために戦っていればよかった。
敵対するものを切り捨て、返り血を浴びて。
仲間の死体を踏み越え、敵の死体を増やして進む。
鬼に、修羅に、誰にも負けないあなたの剣に。
あなたを守り、あなたの夢のために戦う。
そのためだけに戦っていればよかった。
…そのはずなのに。
どこで間違ってしまったのだろう?
どこの歯車が軋んで外れ、今私はここにいる?

 ―後悔をしていないと言ったら、嘘になる。

「…呼ばれた?」
「ええ」
「誰に」
「…誰、でしょう。でも、きっと気のせいですよ」
それ以上張コウは何も言わなかった。
司馬懿も何も言わない。
馬鹿にされたのかと思った。あきれているのかと。
考えてみればそれもそうだ。
いきなり立ち止まって空を見上げ、誰かに呼ばれたような気がする、と。
いっそ笑い飛ばしてしまおうかと思ったときだった。
「…まだ、心残りがあるのか?」
ない、と言おうとした。
そんなもの、あるわけないじゃないですか。
しかし言葉は出なかった。
黙ってしまった張コウの前で、司馬懿は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
不機嫌そうな瞳は、まっすぐ張コウに向けられている。
「…まあ別に、どうでもいいことだがな」
司馬懿が去っていく。
その背中に、半ば反射的に手を伸ばしかけて、降ろす。
そう…――そう。
わかっていたことではないか。
自分には彼の背に手を伸ばしていい権利なんてない。
自分は、一度捨てたのだ。
そんな自分が、誰かに手を伸ばしていいはずがない。
心残り?…そんなもの。
(―…腐るほどあるに決まっているでしょう)


そしてある日唐突に告げられた彼の死。
あまりにも唐突すぎて、なのに心のどこかではとても冷静になっていた。
なんだか自分とは別の世界の話みたいで。
悲しいとも感じなかったし、涙だって出なかった。
私の心にあったのは、唯一つの答えの失われた問い。
(私は、呼ばれたのだろうか)

そう、
答えは永久に失われた。
 

かなり古いの引っ張り出してきました。
袁蝶と司馬懿。…袁蝶、でしょうかこれ。

袁蝶は、袁紹の思いが重すぎてから回りしている感じなのが好きです。
…オヤジギャグじゃないですよ。

読んでくださってありがとうございました!

 
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