彼の乗る馬は、そろそろ限界だった。がくがくと震え、口から泡を吹いている。
もう駄目だろう、と思ったとき、馬が倒れた。
一緒に転げ落ちながら、もう痛みすら感じない自分の体に恐怖を覚えた。
「将軍!」
駆け寄ってきたのは、良く知った部下の一人だった。だが名を思い出せない。
「将軍、しっかりしてください!」
馬から下りた彼に抱き起こされ、揺すぶられ、苦笑する。
「私は捨て置きなさい。この場から、あなたは早く…」
「そんなこと、できるわけがありません!」
強くかぶりを振って、彼は叫ぶ。彼の名は何だっただろう。
「…私は、もう行けませんから」
近い所で、さっきまで自分の乗っていた馬が痙攣していた。死が近いのだろう。
その背や尻、首には太い矢が何本も突き刺さり、白い毛並みを赤く汚していた。
ごめんなさい、あなたまで巻き込んでしまった私を、ゆるして。
「馬なら俺が調達してきます!だから将軍も…!」
「この足じゃあ、無理ですよ」
その言葉に青年は彼の足を見、そして目を背けた。
足だけではない。肩に、背に矢は突き刺さり、腕や体には無数の裂傷があった。
どれも致命的なものではないが、そこから流れ出す命の破片は、決して小さくはない。
だけど、やはりもう、痛みはなかった。
「将軍…」
「いいですか、私は今から貴方に、最後の命令を下します」
だんだんと息が苦しくなってきた。
「軍師殿への伝言です…いいですか?ちゃんと覚えてください」
「…はい」
彼の呟いた一言一句を、青年は復唱し、記憶に刻んだ。
もちろん軍師へも伝えよう。
だが、できるなら自分の脳裏にだけでも、この声ごと焼き付けて。
父の愛したこの人の全てを、この俺の脳裏に強く強く刻み込んで。
「…覚えて、くださいましたか?」
「はい。確実に、軍師様へ伝えましょう」
「では、もう行きなさい」
「将軍!」
彼の支える腕から自力で体を起こし、張コウは立ち上がった。
貫かれた膝が崩れそうになるのを、堪えた。
(だって、私はまだ生きている)
あの定軍山で散った貴方は、もっと痛かったのでしょうから。
膝に刺さっていた矢を、矢尻を折って引き抜いた。
鋭く酷い痛みが体を駆け回って、張コウは呻いた。
でも、まだ痛みを感じることが出来たことに、ほんの少し安心した。
あと何分、何秒…どれだけの時間、私の体はここにいられる?
「さあ、行きなさい」
まだ自分を残して行く事にためらいを感じている青年を、振り返らずに張コウは告げた。
地面を赤黒く染める血と投げ捨てられた折れた矢。
張コウの背中を見つめ、彼はまだ戸惑っている。
「行きなさい、…命令です」
「…はい」
やっと、彼は頷いた。苦しげな声だった。
まだ遠くに、剣戟の音と悲鳴が聞こえる。
それが彼らの前に姿を現すのも時間の問題だろう。
のろのろと青年は乗ってきた茶色の馬に乗りなおした。
茶色の馬が砂埃を上げて去ってゆくのを少し見つめ、そして彼は前に向き直った。
向かってくる緑色の鎧の兵たちがいる。
張コウの姿を見止めたのか、彼らは立ち止まった。
さあ、私はあと何人殺せるでしょう?
彼は微笑み、あの激戦でも壊れなかった愛用の爪をゆっくりと上げた。
その笑顔を、緑の鎧の兵たちはどう受け止めただろうか。
一瞬ざわついたその隙を突き、彼は地面を蹴った。
他人のものか自分のものかも分からない赤に塗れながら、ふと思った。
彼は、しっかり私の伝言を届けてくれただろうか。
そしてあの軍師殿は何を思っただろう?
もうそれを確認できないから想像するしかないけれど、きっとあの人のことだ。
そうか、とでも一言言って、終わりにしてしまうだろう。
ふと見上げた空は予想以上にまぶしくて、
細めた視界に、暖かい手が伸ばされるのを感じた。
その向こうで微笑んでいるのがあなただと気付いたから、
私も手を伸ばし、その手を掴んだ。
温かく大きなその手に、やっと触れられたのだから、
もう、思い残すことなんてありません。