大変だ、と、唐突に気付いてしまった。
私は死んでしまったではないか。
これからはどうやってあいつを守ればいいというのだ。
君には見えない
透ける手足を見下ろしながら考える。
ふいに、足が浮かんでいることに気付き、それからその下に自分の体があることに気付いた。
(…酷い顔だ)
病気で衰弱した顔は年以上に老けて見えるし、腕は痩せて木の枝のようだった。
力強い意志を宿している、と言われたこともある茶色の瞳は閉ざされ、もう二度と光を見ることはない。
死んでしまった、体。
透けてしまった手足を見る。
(…元に、戻っている?)
病気になる前…そうだ、しかもあの戦の前のような…
まだ、負けることも彼を失うことも想像していなかったころのような体。
しっかりと筋肉がつき、口の上に髭を蓄え、堂々とした表情の。
(…これはこれで、悪く、ない、か)
私は、悪いことを全て忘れることにした。



ふわりと浮いた体は、どうやらどこへでも行けるらしい。
手近にあった壁で試してみたら、いとも容易くすり抜けてしまった。
生きていた時には出来なかったことだ、と、何だか楽しくなって、何度も行き来した。
しかし、ふいに気付く。
(誰も、私に気付かないのだ)
部屋の中も外も、誰かが慌しく行き来する。
しかしその中の誰一人として、私には気付かず私をすり抜ける。
死んで、恐らくは魂だけになってしまった存在の私。
時折犬に吠えられたり猫に牙を向かれたりもしたが、人は、誰一人として自分に気付かない。
少しだけ寂しくなって、猫のほうへと手を伸ばしてみた。
フーッと牙をむいた猫は数歩後ずさり、それから私の手を引っかこうとした。
すり抜けた、猫の前足。
呆然と手を見つめる私を置いて、猫は走り去ってしまった。
誰も触れられぬ体。
誰も気付かない体。
(…そうか)
…これが、死か。



ゆっくり、歩き出した。
地面に足がつく感覚はなかったが、生きていた時と同じように足を踏み出せば、体は進んだ。
どこへ行こう、と考えた時、もう心は一つの所にしかなかった。
(張コウ)
最後の最後に、進む道を違えてしまった彼を、それでも私は愛していた。



そっと庭を覗く。
町に入ってすぐ、張コウの家を見つけることができた。
何せ、一番美しい家を探せばいいだけなのだから簡単だ。
庭には既視感を感じる色とりどりの花が植えられていた。
私の元にいたときと、同じような彩だった。
その中に、彼はいた。
(張コウ)
変わらない笑顔で、一つに結った髪を揺らして歩いている。
(張コウ)
その足元にはまだ小さい、茶色の子犬がまとわりついていた。
「ふふ、あんまりはしゃいでいると転びますよ」
人間の子供に言い聞かせるように張コウが言うと、子犬はわかった、とでも言うようにワンと一つ鳴いた。
張コウはしゃがみこんで、花の調子を見るように、そっとその花を摘んだ。
(張コウ)
聞こえないのだと分かっていて、手を伸ばす。
何かに気付いたように、子犬が顔を上げたときだった。

「あ」
張コウが、振り向いた。
一瞬だけ、目が合った、ような気がした。
「夏侯淵殿」
違う、男の名を。
彼は笑顔で、嬉しそうに呼んだ。
透ける私の体をすり抜けて、張コウは駆けた。

振り向くと、張コウはそこにいた。
知らない誰かに、嬉しそうに抱きついて話しかけている。
いや、確か、私はその男を見たことがあったかもしれない。
だが、悪いことを全て忘れた私の頭には、もはや敵であった男の名など残っていなかった。
(そうか)
張コウは笑っていた。
男も、笑っていた。
(彼は、幸せになれたんだ)
もう誰かに…私に縛られることもないのだから。
自分の大事だった人間が幸せになったということは、酷く苦しかったけれども。
何故だか、とても嬉しかった。



それからしばらく、私は彼の屋敷にいることにした。
風呂も覗けたし寝顔も見放題だったけれども、いつもいい所で子犬が邪魔をした。
張コウは一度も私に気付かなかったが、それでもいいと私は思っていた。
毎日張コウは男と会った。
それは自分の屋敷だったり相手の屋敷だったり様々だったが、会えば、いつも張コウは笑った。
見たことのある笑顔のこともあったし見たことない笑顔の時もあった。
そして、時々張コウは泣いた。

「私は、袁紹様を、」
突如私の名が出て、私はとても驚いた。
その張コウの声が涙声だったからなおさらだ。
「わかっていました、わかっていたんです」
男に寄りかかるように上体を預けながら、彼は泣いていた。
「私は、袁紹様のことが嫌いだったわけではなかった。むしろ、好いていたんです。
 盲目的に…。それは尊敬と言う名の愛でした。
 私はあの人を守りたかったんです。護りたかった」

最後の日…美しい炎が上がったあの日に、私は張コウに戻ってくるなと言った。
負けを、認められなかった。
あんな男に私が負けるはずがない。私を誰だと思っているんだ?
(勝つか、死ぬかだ。)
戦は私にとって、いつもそうだった。
そして私は勝ってきた。
死を、知らなかった。

(戻ってくるな)
言い放った時の、張コウの瞳。
灰色の瞳が炎を受けて、妖しく紫に輝いていた。
何かを諦め、失った瞳。
何かを、決意した瞳。

私は彼を愛して大切に思っていた。
彼は私を尊敬し守りたいと思っていた。
通じていたはずなのに、この思いは。
どこで間違ってしまったんだろう?
どこですれ違ってしまったんだろうか。

男の肩で泣く張コウの背を、男はぽんぽんとたたいていた。
まるで子供をあやすかのように。
「大丈夫、俺がいるよ」
私の耳にも聞こえた小さな囁き声が、張コウを抱きしめた。



もう大丈夫なんだ、と、唐突に理解した。
もう、張コウには私は必要ないのだと。
とうに切り離した昔の主人を、彼は夢に見ることはあっても、現実にはもう見ないのだ。
後悔し泣くことはあっても、決して、やり直したいとは一言も言わなかった。
もう大丈夫なんだ、と、理解してしまった。
もう、大丈夫なんだ。



子犬と目が合った。
(張コウを、よろしくな)
ふいに、体が軽くなった気がした。
子犬が私を見つめ、パタパタと尻尾を振る。
(生まれ変わったら、お前になりたいな)
いつだって傍にいられるから。
守れるのだから。
子犬の頭を撫でようと、しゃがみ込んで手を伸ばした。
届く前に、手が消えてしまった。
子犬がキャン、と高い声で鳴く。
あ、と思う暇もなく、私は消えてしまった。
最後に、張コウが振り向いて、私を見た、気がした。
そう気付く間もなく、私は消えていた。
 

袁→張で淵張、だと思われるです。
実は袁蝶も大好物だったりします笑。

本初は死んでも、張コウの後ろあたりに憑いてそうな気がします。
それで、「私の張コウに触るでないムキー!」みたいな。
…守護霊…??

読んでくださってありがとうございました!

 
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