息を潜めて、木々の間を抜けてゆく。
できるだけ音は立てずに、気配を殺して。
手に持った弓は、いつでも構えられるように矢をつがえたままだ。
薄暗い森の中、周りの気配に気を配りながら、夏侯淵は歩いていた。獲物を探して。
ふいに、右手に何か生き物の気配。
「そこかっ!」
ヒュンッ!
一瞬で矢を引き絞り、放つ。矢羽が風を切るいい音が、静かな森に響いた。…が。
「きゃあ!?」
「!?」
獣とは明らかに違う。人間の悲鳴。
(マズったか!?)
焦りながら茂った下草を掻き分けて、夏侯淵は先ほどの気配のほうに向かって急いだ。
弓持つ手で       
今日は君の手を握り
「悪ぃ、大丈夫だったか?」
「あ、夏侯淵殿だったんですねぇ」
そこに立っていたのは張コウだった。
道理で狙いが正確でしたよ、と続ける。
その頬に一筋、赤い血の線が出来ていて、夏侯淵は青ざめた。
以前に、彼の顔に傷をつけた敵兵が、一瞬のうちにボロボロにされたのを見たことがあったからである。
「そ、その…ごめん、な?」
とりあえず謝ってみると、意外なことに張コウは笑った。
「大丈夫ですよ、コレくらいの傷。嘗めとけば治ります」
「って、そんな所、嘗められないだろうが」
「あ、そうですね。…じゃあ…代わりに嘗めてくれません?」
にやり、と笑って張コウが言うと、夏侯淵の顔が真っ赤になった。
オロオロしながら、分かった、と頷こうとした時、それまでこらえていた張コウがぷっと吹き出した。
ぽかんとする夏侯淵にくすくす笑いながら言う。
「…なーんて、嘘ですよ」
焦りましたか?と笑う張コウに、夏侯淵はとりあえず、固く握った拳をお見舞いしておいた。

「そういや、お前、何か獲物を捕まえたのか?」
振り向いて質問する夏侯淵に、頬に薬を塗った布を貼り付けた張コウが答える。
「いいえ…まだ一匹も」
夏侯淵殿は?と返す彼に、夏侯淵も苦笑しつつ首を振った。
「じゃ、先に獲物を見つけたほうが勝ちだな」
「そうですね」
二人、そして他にも何人もの武将が、今この森の中にいる。
なぜかと言えば、今この森では、曹操主催による、狩りの大会が開かれていたのだった。
参加しているのは魏国の主だった武将達。
いつもは剣や斧、羽扇を振り回して戦う彼らも、今は弓と矢だけが頼りである。
「その点、夏侯淵殿は、有利ですよね」
「おうよ。弓は俺の得意な所だからな!」
弓を掲げて、夏侯淵。
目を細めて笑うその笑顔から、本当にその腕を誇りに思っているのだという思いが伝わってくる。
張コウも釣られるように微笑んで、言った。
「でも、私だって負けませんからね!」
二人は目を合わせて、にっと笑った。

「あっ!」
急に声をあげ、張コウが前を歩いていた夏侯淵を追い抜く。
「ん?どうした?」
その声にも答えず素早く走っていき、手近にあった細い木に登っていく。
彼より足が遅い夏侯淵がやっとその木の元に辿り着いた時、彼は弓に矢をつがえ、どこかを狙っていた。
「獲物か?」
その声に答えるように、木の上からどこか一点を狙った矢が空を切るのが見えた。
張コウの姿は、下からでは木の葉に隠されて、よく見えない。
「…ああ」
残念そうな声。そして夏侯淵の目の前に、あまり音もさせずに張コウが降ってくる。
「逃げられてしまいました…」
「そうか、残念だったな」
しょぼんと肩を落とす張コウ。
もしも彼の頭に猫の耳でも付いていたら、きっと今は下向きにへにょっているだろう。
夏侯淵はそんな張コウの頭をぽんぽんと叩くと、ま、そんな事もあるさ、と慰めた。
「過ぎちまったことはしょうがねぇさ。次の獲物、探しに行こうぜ」
張コウが顔を上げてはい、と笑うのを見て、夏侯淵は歩き始めた。

「…いませんねぇ」
「いねーなぁ」
それからどれくらい歩いただろう。
始まった時はまだ昇りきっていなかった太陽が、今は傾き始めている。
刻限は、確か夕方だと夏侯淵は記憶していた。
「どうしましょうか」
「どうするかねぇ…」
二人、途方にくれる。
さっき張遼に会った。彼は小ぶりの猪を捕まえたと嬉しそうに語っていた。
「司馬懿殿は早々に諦めたと言うことでしたしね」
甄姫が笛を吹いている場面にも出くわした。
周りでトラや鹿がうっとりとそれを聞いていたが、あれらを彼女はどうするのだろう。
考えが怖い方向に行きかけて、夏侯淵は思いっきり首を振った。
「どーせ勝っても、賞品はいつものアレだよなぁ?」
「アレ、でしょうねぇ」
アレとは、わが国の殿、曹操のブロマイドセットであった。
某忍者学校の学園長のごとく、彼は、何か思いつきで何かを実行しては、その勝者にそれを商品として贈呈するという、悪い癖があるのだ。
「いらねーなぁ」
「でも、意外に高く売れるって言う噂もありますよ」
「…それはまた、物好きな奴もいるんだなぁ…」
「そうですかね?殿って、美しいじゃないですか」
「…」
お前の美的感覚は時々分からん。と黙った夏侯淵の目が語っている。
それに気付いた様子もなく、ふいに張コウがにこりと笑った。悪戯を思いついた子供のように。
「ね、夏侯淵殿」
「ん?」
「このまま、二人でばっくれちゃいませんか?」
「は?」
あまりに突飛な言葉に、夏侯淵は数秒固まる。
いつも(服装と言動の割りに)マジメに仕事をし、行事に参加する張コウにしては珍しすぎる言葉である。
「…雪でも降るんじゃないか?」
「失敬な」
本気で空を見上げるが、そんな気配はない。少し安心する。
「どうせこのままじゃ何にも出来ないうちに終わっちゃいますよ」
「だけどなぁ」
「弓の名手ともあろう将軍が獲物の一匹も捕らえられず帰ってきたなんて知れたら、あなたの威厳も落ちちゃいますよ?」
「そりゃまあ…そうだけど」
それだけはっきり言われると、へこむ。
「だから、私に誘われてサボってたってことにしちゃいましょうよ」
「それじゃあ、後でお前が殿にお仕置きされるぞ?」
「大丈夫ですよ、後のことは後で考えますから」
「…」
夏侯淵の頭の中で損得勘定用そろばんがパチパチとはじかれる。
「…ま、いっか」
途中から面倒になって投げてしまったが。
「よし、乗った。ばっくれちまおうぜ!」
「本当ですか!?」
途端にぱぁっと笑顔を輝かせる張コウ。ああやっぱ美人だなぁ、と思う。
「だけど、殿のお仕置きは怖いぜー?」
「そうなんですか?」
「溜まりに溜まった何年も前の書類の手続きを押し付けられたり、汚れまくった兵舎の便所掃除をさせられたり…」
「…っ美しくないっ…!!」
汚れた便所でも想像したのだろうか、途端に青くなる張コウ。そんな彼を見て、夏侯淵は苦笑した。
「だからな、叱られる時は一緒に叱られような?」
「だって、夏侯淵殿に迷惑をかけるわけには…」
「いいだろ?一緒にばっくれんだから、俺だって同罪さ」
「…はい!」
夏侯淵が手を差し出せば、その手を張コウは握り締めた。
「行こうぜ」
頷いて握り締められたその手を、自分からもぎゅっと握って。
もう少しで沈む夕陽に背を向けて、彼らは、ほんのちょっとだけ遠くへと走ってゆく。
その後姿を見ているものは、ウサギやイノシシたちだけ。
彼らにとっても駆けて行く二人にとっても、優しい時間が訪れる。
 

3の魏ED辺りを想像して。
3の微妙に変わるEDは何か好きでした。
とりあえず、蝶と張遼は出すぎだと思います。
魏と黄巾、それから袁紹軍と呂布軍で。
や、嬉しいですけども。

読んでくださってありがとうございました!

 
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