「…やあ」
誰かの微かな足音を聞き、ツイハークは視線を地上に戻した。
片手を挙げて近寄ってきたのはムワリムである。ツイハークはそれに答え、片手を挙げた。
「坊ちゃんは一緒じゃないのかい?」
「ああ。今はまだ、サザ君と話をしているはずだ」
ああ間違えた、今はサザさんだった、と続けて軽く笑う。
「こんな夜遅いって言うのに、元気だな」
ツイハークも笑った。
「サザもトパックも、3年前よりずいぶん成長したね」
「そうだな。…私はずっと坊ちゃんの傍にいたから気付かなかったが」
「身長もだが、表情がずいぶん大人になったよ。君の教育がいいんだろうな」
「そうか、ありがとう」
と、そこでムワリムが首をかしげる。
「ところでツイハーク。お前は何をしていたんだ?」
その問いに、ツイハークは空を見上げた。
「…星を、見ていたよ」
その頃、二人で丘に登って、星を眺めたことがある。
手が届きそうだとはしゃぐ彼女の横で、彼女の横顔を見ていた。
綺麗だと笑う彼女の横顔が、夜空なんかよりずっと綺麗だと思ったから。
吸い込まれそうな夜空を見上げて、手と手を握り合った。
二人でならあの空に吸い込まれても大丈夫だと、そう言って二人は笑った。
二人でなら何が起きても大丈夫だと、そう言って二人は笑った。
「…隣、いいか?」
「ああ、もちろん」
ツイハークが座る位置を横にずらすと、その横にムワリムは座った。
ムワリムは空を見上げたが、ツイハークは一瞬、その揺れるしっぽに目を取られた。
「綺麗な夜空だな」
「ああ」
そのまま、しばらくの無言。
聞こえるのは本当に小さい虫の声と、微風で揺れる草がさざめく音だけ。
静かな世界でただ並んで、空を見上げていた。
「…どうした?」
「…え?」
沈黙を破ったのはムワリムの声。唐突な問いに意味を図りかね、ツイハークは問い返した。
「震えている」
指摘され、初めて気付いた。
両手で体を抱きしめて、自分が震えていた。
「…はは、ずっとここにいたから、少し冷えたかな」
違う。本当の理由を知っていて、ツイハークはごまかすように笑った。
しかしそれにムワリムは乗ってこず、気まずい沈黙が流れる。
「…本当は」
沈黙に耐えかねて、ツイハークは白状した。
「怖かったんだ。あれはあまりにも美しくて暗くて、吸い込まれてしまうんじゃないかと思った」
「ああ…」
「おかしいだろう。下には地面があるし、隣にはお前がいる。…けど」
星はあまりにも美しく瞬いて誘う。空は底のない暗さで、意味もなく不安にさせる。
空から視線を外したら全てが消えてしまう気がして、空から目を離せなくなる。
目を離せないから、隣が見えなくなる。地面も誰かも見えなくなる。
そして、全てが消えてしまう。
「それが恐ろしいって思ったら…いつの間にか震えていた」
「……」
「俺は弱いな。笑ってくれて構わない」
そういって、自嘲気味に声を上げて笑う。しかしムワリムは首を振った。
「そんなことはない」
「?」
「本当に弱い者は、怖くなった時それを口に出すことさえも恐れる」
ムワリムの口調は強く、引き込まれるようにツイハークは頷いていた。
「お前はちゃんと、自分の弱さと向き合っている」
「…」
「それは、強い者でないとできないことだ」
「…そうか?」
「ああ」
ムワリムは、強く言い切った。
「…ありがとう、ムワリム」
ツイハークは、微笑んだ。視線を合わせて、ムワリムも微笑んだ。
「怖いなら、…こうしていよう」
「!」
ツイハークの右手が、温かい何かに包まれた。
それがムワリムの左手だと気付くのに、そう時間は要らなかった。
「お前が夜空に吸い込まれたら私が引き戻そう。
それでも戻ってこられないなら、私も一緒に行こう」
「…でも、君の大事なトパックは、ここにいるんだぞ」
「こんなに震えているお前を、一人にできるはずがないだろう?」
その時、初めてツイハークは、今が夜であることに感謝した。
一気に真っ赤になった顔はきっと、向こうからでは見えなかっただろうから。
「…ありがとう」
それだけ言って、重ねられた右手に、左手も添える。
ムワリムの手はとても暖かくて、これはラグズとベオクの差かな、などと思う。
そして見上げた空にはもう、美しい恐ろしさはなく、両手に感じる暖かさが全てだった。
あの頃、二人で丘に登って、星を眺めたことがある。
あの日も握り合った手が暖かくて、それだけが全てになった。
あの日が今に戻ってきたかのような錯覚に陥って、ツイハークは気付かない内に泣いていた。
その暖かさが、昔のとは違うことの悲しさに。
そして、一度失った暖かさにもう一度出会えたことの嬉しさに。
俺は幸せだと思って、ツイハークは空を見上げた。
東の空が、そろそろ白く染まってくるはずだ。