そらの むこうへ いこう
もう置いて行かれるのは嫌だと、
あの辛さを知っているから、
置いて行くのも嫌だと。

そう思っていたから、
貴方の命令は嬉しかった。

私はあなた(だれ)の心にも残ることなく、
そらのかなたへゆけるのだ。
「…その命令を、私に?」
「ああ」
かすれた声で尋ねれば、司馬懿は頷いた。何の迷いもない声だった。
「追討戦だ。必ず諸葛亮を殺せ」
真っ直ぐに張コウの瞳を見て、司馬懿は言った。張コウはただその目を見返していた。
「蜀軍はもう崩れている。今なら、お前なら行ける」
そんなこと言って、そんなこと貴方は信じていらっしゃらないでしょうに。
張コウは言おうとして、止めた。
その代わりに微笑んだ。
「良いでしょう。軍師様に頂いた信頼に、この張儁艾、見事に答えて見せましょう」
自分で一番優雅だと思う一礼をして見せれば、司馬懿は満足げに頷いた。
「任せたぞ、張コウよ」
「お任せください」
迷いなく歌うように答えた後、少し躊躇した。
(もう、貴方が私を必要としないのであれば)
だが、そう口に出す前に、答えをもらう前にもう、相手が言うだろうことは分かっていた。
きっと、必要だ、と答えるのだろう。
彼にも、彼自身の本心はきっとわかっていないのだ。
今朝、懐かしい人たちの夢を見た。
睨み合う、殿と懐かしいかつての主君の横で、
呆れたように隻眼のあの人が仲裁に入ろうとしていた。
そして優しいあの人が、自分に向かって手を振っていた。
まるで、お前もこっちに来いよ、とでも言うように。
微笑んだ顔が本当に懐かしくて、起きた時には泣いていた。
まだこんなにも彼らを近くに感じている自分に気付いて、泣いた。
あの優しく大きく暖かい手に、触れたくなった。
触れる前に、目覚めてしまったから。
「ねえ軍師様」
「何だ」
「手を、貸してくださいますか」
「?」
訝りながらも差し出された手を、壊れ物でも扱うかのようにそっと両手で包み込んだ。
血が通っているのが不思議なほど冷えたその手は、あの暖かい手とは違った。
それがわかっただけでも、十分だった。
剣など持ったこともないように見える細いその手は、守らなければならないと思った。
「ありがとうございました」
「何だ?変な奴だな」
「私が変なのは、軍師様も知ってらっしゃることでしょう」
軽口を叩いて見せれば、そうだなという酷く簡単な答えが返ってきた。
張コウは、酷い、と言って頬を膨らませた。その芝居じみた表情に、司馬懿も微笑んだ。
傍から見ればそれは、仲の良い者同士の他愛もない会話に見えただろう。
もう、いいでしょう?私は十分にこの世界で働いた。
三度変えた君主達はもう全員この世を去った。
もう私の裏切りをとがめる人は、この世にいないのでしょう?
私は、十分に償いを致しました。
だから、もう。
 

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